Tales

各界名士とのご縁と想い出

私たち城西館は明治七年の創業以来、皇族のご常宿として、また多くの各界の名士の方々をお迎えしてまいりました。

八代目社長、藤本楠子と吉田茂宰相とのご縁をはじめ、政財界、学会の知名人の方らとの逸話も数多く語り継がれております。

旅館は家庭の延長

先代の藤本楠子は、旅館としてのあり方を重んじ、『家庭の延長』のような、心休まる場所をお客様にご提供できるようにと日頃からその考え方を大切に経営しておりました。1976年(昭和51年)に高知新聞のインタビューで、『旅館は、お客様にとって、わが家のように安心して寛げる場所でないといけない。笑みを絶やさず、真心を込めて接すること。たとえ、時に心が晴れない時でも、笑顔を絶やさず、和、円満こそが最も大切です。』と語っている。

昭和51年11月1日 高知新聞より

吉田茂宰相との縁のはじまり

戦後間もない1946年(明治21年)4月の総選挙の結果、自由党が第一党になり、第一次吉田内閣が成立しました。同年12月、吉田茂元総理は、久々に故郷高知へ帰り、城西館に滞在しました。これが城西館と吉田茂元総理とのご縁の始まりです。

当時は戦後まもなく、当館も焼け残りの部屋が6つほど。なにもおかまいも出来ない時代。暖房の用意もない状況でした。

先代 藤本楠子は、お風邪でも召したら大変だと思い総理のために、焼け跡から拾った湯たんぽを拾って来て何度も洗い、お湯を満たして総理の膝や足元に置いたと記録されています。また、吉田茂元総理がお出かけの際には、お洋服の袖の裏地が擦り切れていることに気づきましたが、布地も持ち合わせておらず、古い傘の黒い布を丁寧に切り取り、洗って当て布をしました。総理はこのことについては何も言いませんでしたが、嬉しいお気持ちをちゃんとお胸にしまいこまれるようなお方と承知して総理の優しいお人柄が感じられたと語っている。

昭和51年11月1日 高知新聞

吉田茂宰相直筆の看板

1954年(昭和29年)頃、吉田茂元総理が総選挙で帰郷をされた際の、お立ちの日。先代 藤本楠子のもとへ息子である藤本幾雄(城西館9代目社長)が大きな欅の看板を抱えて駆け寄ってきました。以前から、機会があれば城西館の看板に総理にご揮毫いただき、それを永代の家宝にしたいと二人は話しおりましたが、この時すでにお立ちの準備を整えていたため、お願い出来にくい状況でありました。「息子たってのお願い」と藤本楠子がどうにかご依頼をさせていただくと、総理は無言で上着を脱ぎ、手袋を外し、筆に墨をたっぷり含ませて、一気に「城西館」と書かれたそうです。そして「どうだ、上手いだろう」とご自賛された後、和やかな面持ちで「私が一人で訪れたときも、玄関払いせずに泊めてください」とおっしゃいました。現在、城西館の正面玄関に飾っている看板は、この時吉田茂元総理が揮毫された看板の文字を写したものであり、現物は今もなお大切に保管されています。

松下幸之助氏の励みに

1945年(昭和20年)7月4日未明の高知市上空をB29爆撃機の大群が埋め尽くし高知市全体が混乱と恐怖に包まれました。城西館も大きな被害にあい、「鳳の間」を含む5つの部屋だけが残りました。当時、パナソニック創業者の松下幸之助は須崎工場を閉鎖するために城西館に宿泊していました。松下氏は、先代 藤本楠子の働きぶりを見て、「一晩中考えましたが、何も残っていない城西館を一から再建しようと、女性一人で頑張るあなたの姿に心を打たれ、弱気になってはいけないと感じました。工場の閉鎖はもう少し待ちましょう」とおっしゃられたそうです。

昭和62年1月22日高知新聞 『風説を生きる―土佐のれん物語[土佐のあきない風土記]より

昭和天皇より感涙のお言葉

昭和53年(1978年)5月、高知市で開催された全国植樹祭において、天皇が行幸された際、城西館は天皇のご宿泊先として選ばれました。この栄誉ある任務を担い、「行き届いた親切なおもてなし、ありがとう」という天皇の感謝の言葉を受け、先代 藤本楠子は感動の涙を流しました。

政治、財界、官界の著名人や文化人の訪問も多く、吉田茂様、池田勇人様、佐藤栄作様、福田赳夫様、田中角栄様、三木武夫様、大平正芳様などの各首相をはじめ、徳田球一様

、藤原義江様、大山郁夫様、浅沼稲次郎様、羽仁説子様、川端龍子様、千宗興様、柳宗悦様、徳川夢声様、横綱大鵬様、木村義雄様、吉野英雄様など、多くの著名人にご利用いただいています。

昭和62年1月22日高知新聞 『風説を生きる―土佐のれん物語[土佐のあきない風土記]より